秋元薫「Dress Down」のクレジットで、松本晃彦の位置は明確だ。作曲が松本、作詞が秋元、編曲が武部聡志である。収録アルバム『Cologne』の公開された演奏者一覧には、鍵盤奏者としても松本の名前がある。構想を提供する側と、楽器を演奏する側の両方にいるのだ。私たちは旋律を録音から離れて存在できるものとして考えがちだが、楽器にも触れる作曲者は、音楽の思考に指先の来歴もあることを思い出させる。
その名をさらにたどると、細田守の『サマーウォーズ』へ着く。ミラン・レコードのサウンドトラック資料は、映画のオリジナル音楽を松本の仕事としている。シティポップの選曲で出会った作曲者が、まったく違う鑑賞環境へ導く。このつながりの価値を認めるために、二つの作品の音が似ていると主張する必要はない。仕事の条件がすでに異なるからだ。歌は歌う声と共存し、映画音楽は映像、動作、物語の長さと共存する。一人の創作者が、寸法の異なる枠の中で働いている。
その二つの枠には、共通する問いもある。音楽はどう注意を先へ進めるのか。歌の数分間では、聴き手がついていきたくなる必要があり、銀幕ではショットや物語の判断も時間に関わる。松本の道筋を見れば、ポップスと映画音楽は店の別々の棚ではなく、作曲という技術が向き合う違う条件になる。ある能力が分類を越えて移動しても、具体的な作品が同じ形になる必要はない。職業上の経験が続くことと、作風を繰り返すことは別の話なのである。
だから「Dress Down」の署名へ戻るのは、その曲を永久に所有するジャンルを急いで決めるより有益かもしれない。長い職業生活を見せながらも、この曲を後年の成果の予告編へ格下げしないからだ。初期の作品は、未来を指すためだけに存在するのではない。その時点で完成させる必要のあった、一つの仕事でもあった。松本が残す道は、先へ進んでも、立ち止まってもよい。旋律から鍵盤へ、レコードからスクリーンへ。そのたび音楽は、別の何かとどう一緒にいるかを問い直す。