プロデューサーの名は大きく知られることがあるが、仕事の多くは別の誰かを聴こえるようにすることだ。秋元薫『Cologne』における武部聡志の位置は、その微妙な関係を示している。秋元と共同でアルバムを制作し、秋元作詞、松本晃彦作曲の「Dress Down」を編曲した。歌手は他人に包装してもらう空の器ではなく、他の音楽家も自動的に見えなくなるサービス担当ではない。レコードの共同作業は、主役の存在と、その主役が現れるための条件を同時に認められる。
武部の公式紹介は、仕事をコンサートの舞台へも広げる。一九八三年から松任谷由実のツアーの音楽監督を担当しているという。録音と公演では時間との関係が異なる。レコードは繰り返せるが、ライブは観客の前で続けて起こらなければならない。音楽監督には、人や別々の要素を同じ進行する時間の中で成立させる、接続についての思考が必要になる。『Cologne』の制作クレジットと並べると、一枚のアルバムや一人の歌手より広い専門的な位置が見えてくる。
「Dress Down」は、その仕事を見る具体的な点になる。作詞、作曲、編曲は一人の名前に集まらず、秋元自身もアルバム制作に関わる。「天才が歌手の音を作る」というなじみの物語より、創造の責任は豊かに分配されている。武部の貢献は、作品が動く条件を整えることとして考えられる。歌を理解すると同時に、演じる人がその中に居られるようにする。その過程は相手の輪郭を消す必要がなく、むしろ異なる判断が結果の中に適切な場所を得ることを求める。
シティポップは聴き手に気を配る音楽だと言われることがある。武部の仕事は、歌がまずそれを歌う人にも気を配る必要を思わせる。それは要求を低くすることではなく、条件を真剣に整えることだ。再生中の聴き手は音楽監督や制作分担を考えないかもしれないが、そうした言葉はレコードの背後の関係を見えるようにする。主役がしっかり立てるのは、周囲に誰もいないからとは限らない。入る時を知り、支え方を知り、声へ空間を戻せる人々がいるからかもしれない。