『BUTTERFLY』の名義は、Kimiko Kasai with Herbie Hancockである。このwithという短い語に注目したい。二つの認識しやすい音楽的な歩みを結びつけながら、両者が同じものになったとは言っていない。ソニーのカタログは初出を1979年の作品とする。本図が物理的な参照に選ぶのは、Be Withが2018年4月20日発売と明記するLP再発盤BEWITH028LPである。その間には異なる流通の時間があるが、八曲のプログラムは有限で見通しのよい対象として残る。曲順を追うことによって、著名な二人の名前を、具体的な関係の集まりとして読み直すことができる。
選定盤のA面は「I Thought It Was You」に始まり、「Tell Me A Bedtime Story」「Head In The Clouds」を経て、「Maiden Voyage」に至る。題名だけを読んでも、認識から語り、想像、出発へという動きを見つけることができる。これは編集上の解釈であって、音楽家たちが隠れた物語を設計したという主張ではない。それでも、一曲ずつを切り離した収集対象として扱う以外の入口になる。曲は隣り合っている。それぞれに異なる来歴があっても、アルバムの位置が一時的な共通の住所を与える。前の曲の後にあり、次の曲の前にあるという関係も、その曲の現在をつくるのである。
B面は「Harvest Time」「Sunlight」「Butterfly」「As」の順に進む。ここには季節、光、変化、比較をめぐる連想の余地がある。繰り返すが、連想は読み手のものであり、作者の意図を代弁するものではない。確かなのは、A面末尾の「Maiden Voyage」とB面冒頭の「Harvest Time」の間で、LPを裏返す必要があるということだ。この小さな身体の動きは、曲の連続をいったん中断する。休止によって次の始まりが選び直されたように感じられる場合もあれば、デジタルの連続再生では同じ移行がそのまま流れていくこともある。優劣ではなく、注意の配り方の違いとして考えたい。
ハンコック本人の参加は、カヴァーという言葉にも奥行きを与える。以前に演奏し、共同で曲を書いた人が、新たな協働の現場へ戻り、別の歌い手が中心となる。過去は、遠くにある比較の基準だけではなく、現在働いている参加者になるのである。笠井が以前の版をどれほど忠実に再現したかだけを問うのは、十分ではない。よく知っているという感覚が、誰の表現であるかを決定しなくなったとき、どのような選択が可能になるのか。作者がそこにいても、歌手の解釈する権限が消えるわけではない。このアルバムは、その共有の可能性を考える具体的な場所になる。
『サライ』で池上信次が注目するのは、客演ピアニストが一人加わるのではなく、ハンコックのグループとしての個性が関わるという点である。これによって、出会いの規模が変わる。確立したアンサンブルに入る歌い手は、各人の技巧だけではなく、すでに育っている協働の仕方にも向き合う。批評的に言えば、グループは一緒に行動する方法の歴史を持ち込む。声はその歴史に対して、言葉と別の人のフレーズを受け入れるという新しい条件を与える。継続と調整が同時に必要になるところに、こうした作品の面白さがある。同じグループだとわかりながら、その認識が果たす役割は変わっていく。
最後の「As」は、この作品が一人の作曲家だけを閉じた形で描くものではないことも示す。Qobuzの曲別クレジットでは、作者はスティーヴィー・ワンダーとされる。終わり方の音そのものについて何かを断言しなくても、この選曲には構造上の意味がある。ハンコックを中心としたレパートリーを、より広い対話へ接続するからだ。まとまりのある選曲とは、すべての曲が同じ人によって書かれていることではない。適切に置かれた違いが、それ以外の関係を見えやすくする場合もある。この読みでは、結末は閉じた箱に署名をするよりも、隣の扉を開く行為に近い。
Be Withは再発盤について、復元されたパッケージ、帯、四ページの折り込みインサート、Simon Francisによるマスタリングを説明している。これらは物としての再発盤に関する情報であり、音の好みや優劣の証明ではない。同時に、古いアルバムへ再び近づけるようにするためには、具体的な仕事が必要だともわかる。包装は曲順だけでなく、クレジットや背景を手元へ届ける。所有したい物と、読める資料は同じ場所に存在できる。収集が希少に見える品を得ることだけで終わらなければ、その品が記録する人々と判断に、ゆっくり向き合う機会にもなるだろう。
シティポップの地図における『BUTTERFLY』は、出会いの地点として有用である。日本での発売、ジャズの協働、後年の流通という関係は、音楽の様式が互いに密閉された容器で育つという像を崩す。しかし、出会いという語によって、個別の作品を一般的なグローバル化の物語へ溶かしてもいけない。ここには八曲、二つの面、一人の歌手、具体的な共演者がいる。その限界へ戻ることで、文化的な議論も確かなものになる。一枚のレコードが複数の世界を結ぶのは、違いを消すからではない。違いの残る個人が、範囲のある共同の機会を形にしたからなのである。