夜の都市は、走る車の窓から見える風景に縮められがちだ。しかし濱田金吾の『midnight cruisin’』は、音について語る前から、もう少し複雑な道順を差し出している。曲名にはタクシー・ドライバー、シャワールーム、テニスコートが現れる。それぞれ用途の異なる場所であり、労働、私生活、余暇といった別の時間にも通じている。歌の筋書きを勝手に作るのではなく、題名の並びを都市の小さな目録として読めば、想像の地図には奥行きが生まれる。
とりわけタクシーは、見る位置を変えてくれる。乗る人にとって一時的な避難所となる車が、運転する人には仕事場である。同じ夜景の中に、余暇と労働が同時に存在する。これは「横顔のタクシー・ドライバー」という題名から始まる批評上の考察であり、引用していない歌詞の内容を説明するものではない。題名は問いを開けるが、その答えを捏造してよいという許可ではない。誰が移動を自由と感じ、その自由を誰が仕事によって支えているのだろう。
ほかの部屋も、自由を抽象的な言葉のままにはしておかない。シャワールームは、人前に見せる姿と、それを支える身体の間の境界として想像できる。テニスコートには線が引かれ、寸法があり、行為のための規則がある。果てしない水平線とは別の空間だ。これらを並べると、都会的な洗練を、豪華さだけでなく日常の設備から考えることができる。人が外へ出て、また自分の領域へ戻る。その敷居の存在が、街を人の住む場所にしている。
作品には、職業上のはっきりした住所もある。一九八二年十月発表の四作目で、MOON RECORDS移籍後の第一弾だった。一方、全九曲のCD、AMCM-4516が発売されたのは二〇〇一年二月である。二つの日付を分ければ、アルバムが生まれた歴史と、再び手に取りやすくなった歴史が共存できる。再発は新しい関心を呼び込むが、作曲家の歩みをゼロから始め直す必要はない。新しい入口は、作品全体に新しい出生証明書を発行することとは違う。
こうした異なる場所からなる夜は、一人の理想的な乗客だけのものではない。到着する人、去っていく人、働く人、扉を閉められる場所が必要な人がいる。題名から始めたこの読みが開くのは、快楽の保証としてではなく、さまざまな必要の共存としての都会性である。努力の跡を消した移動の夢も、その努力を画面へ戻すと、かえって考える価値を増す。想像するに値する街には、旅と停止の両方が必要だ。灯りを楽しむ人と、その灯りをつけ続ける人の両方が住める場所なのである。