「Blueberry Jam」は『ロゼ』の一曲目である。この二語が入口に置かれるだけで、都市のポップスに抱きがちな期待は少し方向を変える。最初に名乗るのは大通りでも空港でも夜でもなく、日常の食べ物だ。だからといって、作者の実生活から架空の台所を作ったり、瓶を受け取った実在の誰かを探したりする必要はない。題名の力は、まず具体的であることにある。感情は大きな抽象語から始まらなくてもよい。見慣れていて通り過ぎてしまうものが、注意を止めるきっかけになることもある。
ジャムは歌を考えるための比喩としても面白い。もちろん録音現場についての事実ではなく、批評上の連想である。季節とともに失われるものを、形を変えることで保存する。歌もまた、通り過ぎる考えを旋律や言葉の置き方、演奏の条件へと移し替える。その変化は誠実さの反対とは限らない。むしろ気持ちが他者へ届くために必要な手続きかもしれない。そう考えると、甘さは単なる表面の飾りではなくなる。選択、配分、待つ時間を含み、自分の素材を、違う経験を持つ人にも近づける形にする仕事を思わせる。
この曲は飯島真理が作詞・作曲し歌い、坂本龍一が編曲している。異なる役割が並ぶことで、親密さと無造作さを同一視せずにすむ。手紙には書かれた文章だけでなく、紙、折り方、届くまでの道筋もある。それらが存在するからといって、文章を書いた手が消えるわけではない。歌う作者と編曲者を一緒に読むと、日常的な題材にも別の重さが生まれる。選ばれた尺度は小さくても、作品は十分に構成されうる。家庭的な親しさと精密な制作を、互いに排除し合う領域へ分けなくてもよいのである。
冒頭という位置には、アルバムを見る距離を調節する役目もある。友情や秘密、小さな身振りの題名をたどる前に、聴き手は手の届くところにあるものと出会う。入口は建物の全部屋を要約する必要はない。来た人がどの速度で周囲を見ればよいか、それだけを伝えることもできる。一曲目へ戻して考えると、「Blueberry Jam」は切り離せる代表曲であると同時に、後に続く控えめな題材にも十分な注意が向けられるよう、場所を準備する曲になる。小さなものが大きな宣言のふりをしなくてもよい空間を、題名が先に開いている。
再発盤や配信は曲への入口を増やしたが、題名の尺度まで広げてしまう必要はない。聴き手全員に同じ青春の記憶を求めることも、ブルーベリーをある年代の公式な象徴にすることもない。普通のものには違う暮らしが近づける。色を考える人もいれば、保存を考える人、何かを少し分ける行為を思う人もいるだろう。それらは作者の意図を決める判決ではなく、作品の前で開ける想像である。すべての意味を先に説明しないことが、歌の広さになる場合もある。入口に置かれた小さなものが、その先の空間をあらためて感じる可能性を残している。