「FANTASY」は、とても開かれた名前だ。ほとんどどんな映像にも添えられそうだからこそ、この一曲が明確な住所を持つことを忘れやすい。中原めいこが歌い、『FRIDAY MAGIC』の冒頭に置かれている。想像が広がることと、作品に境界があることは矛盾しない。一枚のレコードの第一曲という位置にいながら、注意を遠くまで運ぶこともできる。幻想とは、あらゆる住所を捨てることだけではなく、確かな出発点から、その場所を越える連想を受け入れることでもある。その並存を、この曲を読む入口にしたい。
作詞と作曲は中原、編曲は新川博。このクレジットには、個人が書くことと、書かれたものを録音にする共同作業という、二つの尺度が残っている。協働によって作者が消えるわけではなく、編曲者の仕事も、すでに完成したものに飾りを加えるだけとは限らない。役割の違いからは、書き表せる関係が、どのように聴くことのできる関係になるのかを考えられる。両者の間に、簡単な等号があるわけではない。軽やかさを成立させる判断まで、軽いものとして扱う必要はないのである。
公式音源のメタデータでは、中原は主唱、バックグラウンド・ボーカル、制作にも名を連ね、制作にはKen Sugayaも記載されている。複数の役割を担うという事実を、すべての音を一人で作ったという物語へ膨らませる理由はない。むしろ、いくつもの層に参加しながら、それぞれで他者と接点を持つ姿が興味深い。主唱は覚えやすい中心を作るが、コーラスと制作の署名は、いちばん目立つ場所の外にも彼女の仕事があることを示す。自己表現は前面に出ることだけでなく、どの仕事を引き受けるかにも現れる。
アルバムの一曲目としての「FANTASY」には、人気だけでは説明できない働きもある。後に続く曲が現れるための、最初の条件を提示することだ。これは作者によって保証された筋書きを意味しない。開かれた題名が、まだ具体的に知らないものを受け入れてみようという注意を誘う、という意味である。B面の「FRIDAY MAGIC」に至るころには、最初の招待に、隣り合う曲と別の時間の枠が加わっている。順序へ戻すことは、一曲で成立する力を弱めることではない。他の作品と並ぶことで、力が厚みを増す可能性を見ることだ。
現在の聴き手は、配信サービスで先に出会うかもしれず、後から周囲に集まった映像のイメージを先に知るかもしれない。だが、どれほど似合う画像も、書く、歌う、編曲する、制作するという異なる行為の代わりにはならない。驚きから始まった鑑賞が、少しずつ行為を見分けるようになってもよい。幻想は、人間の尺度を得ることで輝きを失うわけではない。誰も関わらずに発生した美しい空気ではなく、具体的な人々が作り、来歴を保ちながら見知らぬ聴き手へ開かれる歌として、さらに確かな形を持つのである。