「天然色」は大胆な約束である。鮮やかさが加工の結果ではなく、世界が本来の姿を現しただけだ、と言っているように見える。しかし、その語をレコードに付けた途端、事情は複雑になる。レコードは選択され、演奏され、録音され、複製された人工物だからだ。「君は天然色」の面白さは、この裂け目から考えられる。真実らしく感じられるものが、手つかずである必要はない。ある存在が再び説明不要のものに見えるまでに、膨大な仕事が必要な場合もある。
松本隆が詞を、大滝詠一が曲を書いたこの作品は、一九八一年の『A LONG VACATION』に属する。記憶の鮮明さという観点から読むと、思い出すことは保存より複雑な行為になる。過去を箱に入れ、必要なときに同じ姿で取り出せるわけではない。振り返るたびに比率が変わり、ある細部は近づき、別の細部は遠ざかる。題名の「君」は、その意味で親密でありながら抵抗する存在でもある。思い出す側が、相手のすべてを管理することはできない。
レコード自体の再発史は、この問題に物質的な対応物を与える。Sonyは四十周年盤のジャケットについて、オリジナルのアナログ盤にあったデザインの細部を復元したと説明している。忠実であるためにも、新しい判断が必要だった。最初の外観へ戻ることは、何もせずに置いておくことではなく、能動的な制作なのである。古い歌との再会にも似たところがある。過去をもう一度見えるようにするには、いまそれが見える条件を変更しなければならないことがある。
Sonyのインタビューでは、マスタリング・エンジニアの内藤哲也が、二十周年盤で音圧や迫力を追求した仕事について語っている。「鮮やか」は感情を述べる言葉であると同時に、制作の目標にもなりうる。この接点は、郷愁を数値へ還元する必要を意味しない。技術と感情が互いを成立させることを認めるのだ。感情はレコードの中に封じられ、機械が忠実に運ぶだけの小物ではない。処理され、伝えられ、再び注意を向けられる過程で、新たな大きさを得る。
だから「君は天然色」を幸福だった過去の証明書として受け取るだけでは、少し早すぎる。むしろ、終わらない修復作業の中に置いてみたい。誰かを鮮やかに保ちたい、しかしその人を所有物にすることはできない。レコードは繰り返せという命令に従うが、関係は従わない。天然色の約束は、その二つの事実のあいだに掛かっている。人工の媒体が存在を呼び戻す力を示すと同時に、その限界も残す。鮮明さとは所有ではなく、もう一度だけ見えるという出来事なのだ。