長い休暇で高くつくのは、旅費より日常を中断する許可かもしれない。1981年の大滝詠一『A LONG VACATION』は、別の方法を示す。遠方は制作でき、一枚のレコードで運べるのだ。レコード上の遠方には独自の論理があり、実際の便に縛られない自由がある。題名が仕事の暦から時間を借り、「カナリア諸島にて」と「さらばシベリア鉄道」が、ずいぶん離れた行き先を同じ曲目表に置く。現実の旅程でつながらなくても、想像力には乗り換えの方法がある。
絵は、あとから添えられただけではなかった。ソニーの周年資料によれば、大滝の文章と永井博のイラストによる1979年の同名画集は、アルバム誕生の大きな契機であり、四十周年ボックスにも復刻された。この前史によって、音楽と視覚の関係は、完成した曲の包装を選ぶ以上のものになる。絵、言葉、音楽は、空間を構成する方法を互いに差し出せる。一対一で翻訳し合わなくても、同じ題名の中に別々の感覚の入口を持つことができる。
曲目には「君は天然色」と「雨のウェンズデイ」が色と天気を持ち込み、「恋するカレン」は人の名前を残す。この並びを、休暇の広告を広げるものとして読んでみたい。景色が美しくても、人は美しい背景を手に入れたというだけで、感情をやめるわけではない。その緊張によって景色は人の住む尺度を得て、美しい背景も背景だけではなくなる。長い休暇を掲げる一枚にも、雨や別れや、予定表で処理できない関係が入る余地がある。
周年盤に戻ってきた録音資料や画集は、軽やかな作品の周囲に労働の輪郭を見せる。軽やかに感じられることは、制作が簡単だった証拠ではないし、ある年代の消費願望だけで説明し尽くせるものでもない。異なる媒体がうまく置かれ、継ぎ目を意識せずに済むことも、その理由になりうる。本作は八十年代の幸福を全員分証明するためではなく、精密な遠出の方法として残る。体はここにありながら、感覚にはもう一つの住所ができる。