懐かしさは、ときに管理の行き届きすぎた展示室に似ている。年代は明記され、照明は美しく、作品には触れないほうがよい。山下達郎の一九八二年のアルバム『FOR YOU』を開く「SPARKLE」も、その部屋によく似合うだろう。けれど一曲目には、展示品とは別の仕事がある。まだ起きていないことに、聴き手の関心を向けなければならない。年代は作品の住所を教えるが、入口はその先へ進むことを求める。この違いを残しておきたい。
二〇二三年四月、ソニーは「SPARKLE」の新しいミュージックビデオを公開した。制作はクリエイティブスタジオYAR、出演するダンサーはSORAKIとMisa Sugiyama。この選択そのものが、曲を保存するだけではない未来を示している。ダンスはジャケットのようには保管できない。現在にいる身体によって、もう一度行われる必要がある。映像は曲の新たな読み方を加える。確立した名声に動きを招き入れ、親しみ深い作品に別の役割を与えている。
輝きは、その作り手の輪郭を見えにくくすることもある。歌唱、作曲、編曲は山下達郎、作詞は吉田美奈子。短いクレジットから見えてくるのは、一人の才能だけで完結しない制作のかたちだ。歌い手の名前で曲を覚えるのは自然なことだが、聴こえてくる世界のすべてが同じ一人から生まれたと考える必要はない。統一された個性とは、他者の想像力を排除した結果ではなく、それを受け止められる広さでもあるだろう。
曲順に戻れば、「SPARKLE」にはもう一つ仕事がある。次には「MUSIC BOOK」が控え、アルバムはまだ続く。優れた幕開けは注意を独占するだけでなく、この先も聴きたいと思わせる。順番どおりに聴くことは、選択する権利の一部を、曲を並べた人にしばらく預ける行為だ。大げさな信仰ではない。いつでも取り消せる小さな信頼である。それでも、別の候補が絶えず並ぶ画面の前では、その小ささがかえって貴重になる。
「SPARKLE」を聴くたび、全員が一九八二年に帰る必要はない。新しいダンサーも、初めて接する耳も、作品に別の役割を与える。失われた暮らしの美しい証拠としてだけ扱うと、その用途はむしろ狭くなる。丁寧に作られた楽しさを、懐かしむ資格の審査なしに今日へ迎えること。それもこの曲との付き合い方だろう。入口は歴史的な住所を持ったまま、入口であり続けられる。大切なのは、いまもそこを通りたい人がいることなのだ。