「SUNSET BEACH」は、採用した『Pineapple』十曲入りCDの最後に置かれている。原アルバムは1982年5月21日、選んだ再発CDは1990年10月15日の発売だ。Sony提供のYouTubeメタデータには、歌唱・松田聖子、作詞・松本隆、作曲・来生たかお、編曲・大村雅朗とある。これらは具体的な作品と、具体的なプログラム内の位置を確定する。また、似た英語題を持つ無関係な曲との区別にもなる。言葉そのものは見慣れていても、どの声、どの協働、どの順序に属するかによって、題名は一般的な風景以上のものになっていく。
許諾された歌詞資料では、夕暮れの海岸に二人がいて、不安を与える発言が会話へ差し込まれる。語り手が相手との未来を考える動きも含まれている。この短い輪郭は重要だ。美しい場所は、気楽な出会いを保証しない。絵のような風景にも、相手は何を意味したのか、どう答えればよいのかという不確かさが同居する。この観点からは、夕陽は恋愛を成立させる装飾というより、言葉が急に重みを持つ条件になる。広く共有された休日の像が、小さく難しいやり取りをどう囲むのか。その際、そこにいる人まで景色へ溶かしてしまわないことが大切だ。
その像の働きは、位置によって変わる。単独なら海岸は目的地になり、最後ならプログラムを出る前の滞在場所にもなる。直前は「水色の朝」で、朝が夕方のすぐ手前にある。字義的な旅日記なら説明しにくい順序でも、アルバムは日記として振る舞う義務を負わない。始まりと終わりを近づけ、ただ一方から他方へ進ませるより、両者を比較させることができる。終曲を「もう一曲入っている歌」とだけ記すと、こうした作用が消える。位置は関係であり、関係は作曲の署名を変えなくても意味を生み出す。曲を特定することと、曲が置かれた場所を考えることは、どちらも必要なのだ。
三つの創作クレジットからも、その関係へ入れる。松本の役割は言葉、来生の役割は作曲、大村の役割は編曲にある。分けて認識すれば、印象的な題名だけで録音全体を説明したつもりになることを避けられる。大村雅朗と、本図の別の箇所に登場するギタリスト大村憲司が別人であることも保持すべきだ。正確な帰属には批評上の意味がある。協働が、歌手の周囲に漂う曖昧な雰囲気ではなく、異なる仕事の集まりとして見えてくるからだ。歌い手の存在は、他の人の仕事と並べて考えられる。そこに取って代わられず、また他の貢献を呑み込むこともない。
堀家敬嗣は公表したリゾート・ソングの選集に本曲を選んでいる。それは作品が文化的な選曲の対象になったという記録だが、ここでその論旨を複製するわけではない。むしろ、休暇の風景がアルバム末尾に置かれた時、何が変わるかを考えたい。リゾートは日常の時間からの例外として想像されやすいが、終わりは例外にも境界があると知らせる。余暇の図像を無限の消費だけで説明する読みには、この位置が有効な補助線となる。海岸は遠くへ行く欲望だけでなく、有限性、親密さ、共有した一瞬から離れにくい感覚を考える枠にもなりうる。
歌の中の小さな会話と、題名が外側に開く大きな眺めは、最後に一つの安心できる像へ解決されなくてもよい。その未解決の比率こそ、曲を離れる時に残したいものだ。二人は美しい場所にいながら、なぜ互いを読み切れないのか。歌い手はその関係を、私的な証言へ変えずに、どう公共の場へ届けられるのか。松田聖子という存在は認識の起点であり、場面が本人の人生を記録している証拠ではない。『Pineapple』の縁で、署名された協働が特定のやり取りを見知らぬ人へ開く。眺めは大きくなっても、内部の確かさは限られたままだ。すべての感情が片づいたふりをせずに、レコードは終われる。