『Dream in the Street』という題名は、シティ・ポップへの魅力的な入口になる。しかし、入りやすすぎることもある。一曲目が始まる前から、聴き手が家具まで整った都市を想像し、その後に出会うものをすべてそこへ配置してしまうかもしれない。池田典代のデビュー作には、別の可能性がある。レコードは既にある景色を説明するだけでなく、自分自身の街区を組み立てられる。十曲は異なる題名、作者、編曲の仕事を近くへ置く。それらをつなぐのは一枚に属する共通の住所であって、すべての部屋を同じ姿にする義務ではない。
冒頭の順序は、物語と決める前に曲目表として読むと示唆的だ。「アディオス」に続いて表題曲があり、その後に「サマーオレンジの恋」「冷たい雨」が置かれる。別れ、公共の場所、季節の像、冷たい雨が隣り合う。これは歌詞の要約でも、作者が意図した筋書きの証拠でもない。演奏へ入る前から、題名が期待の向きを変えることに気づくための読み方である。そうした変化によって、アルバムの想像上の空間は一枚の途切れない装飾面にならずに済む。曲名は音へ入るための表札であり、表札が変われば足取りも変わりうる。
後半もまた、一つの場所には留まらない。「My prayer」が後ろの五曲を始め、「Sunday morning」が終盤にあり、「たたずんだ街角」が最後を受け持つ。内側への呼び掛け、日常の時間、街角のあいだの移動を題名から想像することはできる。ただし、その意味を選ぶ責任は聴き手に残り、作者の説明へ置き換えてはならない。この責任も、アルバムの魅力の一部だ。順序は関係を用意しながら、すべてを解説しない。題名と題名の間には解釈の余地があり、最後に都市の言葉へ戻っても、整った円環の物語を完成させる必要はない。
作品内部の違いについて、クレジットはより確かな足場を与える。発売元資料では表題曲の作曲・編曲が山下達郎、「冷たい雨」と「My prayer」の作曲・編曲が佐藤博とされる。この参加から、誰か一人が全曲を統一して制作したと考えることはできない。むしろ、共有された企画の中に異なる責任範囲があることを示している。主役の歌い手は、すべての音楽作者が同じでなくても連続性を与えられる。ヴォーカル・アルバムには、複数の書き方を集めながら、呼び掛けの中心を保てる自由があるのである。
後年の公式シングル説明では、「恋のジャイロ」に船山基紀の編曲が明記されている。ここで大切なのは、著名人の一覧を品質保証にすることではない。仕事の構造そのものに差異が含まれていることだ。シティ・ポップという分類が、均一な生活様式のイメージを求めて違いをならすだけなら、有用性は小さくなる。互いに近接しながら異なる実践への入口として使うなら、もっと役に立つ。異なる専門的方法や表現の尺度で大衆性へ近づく曲が、同じ歌手の一枚の中に共存している。その少し不揃いな配置こそ、全体を考える材料になる。
二〇一二年のCD盤は、明確な現代の座標を提供する。品番はTJJC-30007、十二月五日発売、全十曲である。その発売元資料は初出を一九七九年とするが、ソニーOtonanoの公開アルバム見出しでは一九八〇年と記される。未解決の差は、見栄えのよい正確な日付の陰に隠さず、紹介と一緒に保つべきだろう。それでも、確認できる曲順について丁寧に作業することはできる。確かな再発盤の日付と、資料差のある原作の年を分けることで、分からないことを分かったように見せず、対象をむしろ明瞭にすることができる。
街区が面白いのは、次の入口を通ると経験の尺度が変わりうるからだ。『Dream in the Street』にも同じ注意が向いている。表題曲は門を開くが、アルバムはそこから先の部屋へ足を進めるよう求める。複数の作曲家と編曲家を認識し、全体の順序を残し、不確かさを適切な場所に置く。それらはレコード全体を真剣に扱うための方法になる。ここでのシティ・ポップは、共存によって理解される。一つの幻想を十曲へ引き延ばすだけではなく、違う仕事や表情が自分の形を保ちながら隣り合える共有の場所として、一枚が成立するのである。