『FRAME OF MIND』という題名を、位置の変わる枠として想像してみる。中にある物が同じでも、見方はすでに変わっているかもしれない。一九八五年十一月に発表された安部恭弘の四作目のオリジナル・アルバムは、その試みに向いている。ここでいう枠は、制作現場から発見した暗号ではなく、この文章が用いる編集上の読みである。都会のポップ・アルバムが、日常への複数の姿勢を持つとしたらどうだろう。街の全景写真を一枚作る必要も、すべての歌に同じ美しい夕暮れを割り当てる必要もない。注意はよそへ移り、戻り、ときには驚くほど小さな物にとどまる。
十曲の題名を眺めるだけでも、その大きさの変化は現れる。「LADY」に続いて「Steppin’」「PUMPS」、ほかに「黄昏」「瞳の霧」「Where Is Love」がある。呼びかけ、動き、靴、時間帯、問いが一枚の中に並ぶ。英語と日本語が交互に現れるからといって、一方が洗練、他方が本音を独占するわけではない。同じ聴き手が作品へ近づくための、異なる文字の表面として読めばよい。衣服は人目に触れる空間に属するが、ためらいはそれを着る人の中に隠れている。都会の経験には、見える存在と見えない存在の両方を置く余地がある。
終盤の並びは、とくに想像を促す。「KISS MARK」から「君は夢の中」を経て、「CLOSE YOUR EYES」へ。題名を視覚的な手がかりとして読めば、外側に残る痕跡から、他者の夢、そして見ることの中断へと動いていく。ただし、これは歌詞の要約でも、音が厳密な筋書きに従うという主張でもない。「都会的」という言葉の可能性を少し変える読みである。街には観察される表面とともに、自分を見せることから退く瞬間もある。磨かれた生活の象徴とされるレコードが、その生活を演じたくない時間について考える場所にもなりうる。
その親密さをすべてジャケットの大きな名前へ帰すと、別の細部を見落とす。「CLOSE YOUR EYES」の公式クレジットは、安部の作詞・作曲と清水信之の編曲を分けている。一曲の分担を全曲へ広げる証拠にはせず、仕事の見える一か所として受け止めたい。別の人が提示の仕方を整えたからといって、個人の表現が個人のものでなくなるわけではない。共同作業によって、知らない聴き手も入れる形を得ることがある。このように洗練を考えると、欲しい物の一覧から、働く人々の関係へと目が向く。上質さは高価な暮らしの品目だけで決まらない。
再発盤は題名にもう一つの曲がり角を加える。全十曲の二〇一九年SHM-CDは、初版LPの装いを小さく再現し、新たなリマスターを採用した。二〇二三年盤にはさらに初期のデモが加わる。小さな紙ジャケットは過去を手に持てる大きさにするが、現在を一九八五年へ戻すわけではない。同じ題名を、別の生活の地点で迎える私たちは、新たな経験を持ち込み、何に目をとめるかを選び直す。再発見は、一度も住んでいない時代への完璧な帰郷を約束しなくてもよい。枠がわずかに動いたことで、見慣れた物の比率が変わって見える。その瞬間もまた、再発見なのである。