ポップソングが人々の生活に入ってくるとき、最初に覚えられるのは歌っている人の名前であることが多い。作曲者の名前は小さな文字のままでも、その出会いから不在になったわけではない。CINDYは、この見え方のずれを考える手がかりになる。他の歌手へ音楽を届ける人であると同時に、自分の声でレコードの中心にもなれる。その二つを、無名から有名へという昇進の階段に並べる必要はない。音楽家が行き来できる別々の居場所と考えてみたい。作曲は考えを身体の外へ送り出し、歌唱は一つの可能性に具体的な息と時間を与える。名前の豊かさは、いつも最も明るい場所にいることだけでは測れない。
中山美穂の「人魚姫 mermaid」と「Witches」の作曲を手がけたことは、ソニーの音楽誌にも記されている。題名は変身や異なる姿を連想させるが、そこから二曲に共通する物語を作り上げる必要はない。むしろ面白いのは、メロディーが別の歌手の公的なイメージへ入るとき、作者との関係がどう広がるかという問いだ。意味の唯一の所有者を決めても、この問いは豊かにならない。書き手が演じられる可能性を用意し、歌手がそれを特定の存在感と聴衆へ結びつける。出会った二つの仕事から、どちらか一人の経歴には収まらない場所が生まれる。画面の中心だけでなく、人と人の間を通るものへ目を向けると、CINDYの仕事が見えてくる。
『Angel Touch』の「Destiny」と「天使の気持ち」は、中山へ提供した曲を自ら歌った録音である。ただしセルフカヴァーは、他の人に貸していた唯一の正解を回収する行為とは限らない。同じ作品が別の身体、録音、曲順の中で何をできるのか、改めて問う機会とも考えられる。以前の歌唱を代用品にする必要はなく、作者の歌唱が誠実さの競争に勝つ必要もない。一通の手紙を違う機会に読み上げるように、言葉とメロディーの連続性は保たれながら、呼びかける現在は新しくなる。作者が作品に戻ることで、すでにある関係が消えるのではなく、関係が一つ増えるのである。
主役と支え手の間にも往復がある。ソニーの発売資料には、山下達郎のライブでCINDYがコーラスに参加したこと、そして山下が『Angel Touch』に参加したことが記されている。互いの仕事へ入っていく関係は、裏方がついに表舞台へ出るという直線的な物語より柔軟だ。コーラスでは他者の線に注意を払い、ソロ作品では複数の線が自分の名の周囲に集まる。それは職業の上下ではなく、責任の置き方の違いだろう。声を織物として想像すれば、独唱は目を引く模様になり、その周囲の糸も模様の見え方を作る。位置を変えるたびに、音楽家が価値を一から証明し直す必要はない。
CINDYを記憶するためには、声をほめる一つの形容詞以上の余地を残しておきたい。ここにあるのは、移動できる作者の姿である。日本語と英語の題名が並ぶ世界も、異国らしさの勲章ではなく、関係を作る材料として眺められる。好きな一曲から始め、名前をたどって別の歌手の作品へ行き、本人のアルバムへ戻ってくる。折り返すたびに、書くことと歌うことの関係は少しずつ違って見える。その旅を意味あるものにするために、神秘的な伝説を加える必要はない。もっと有名な誰かの評価を終点にする必要もない。メロディーの居場所がいくつもあるからこそ、CINDYという名前には、まだ開いていける奥行きが残る。