間宮貴子について語るとき、「一枚だけ」という言葉が先に届きがちだ。ユニバーサルの公式紹介も、一九八二年の『LOVE TRIP』を彼女の唯一のアルバムとしている。ただし、枚数が示すのはディスコグラフィの大きさであって、歌手の存在の重さではない。レコードは、次の項目が書き足されるのを待つ履歴書ではない。すでに完成し、なお聴き手との関係を結びうる作品である。「だけ」という言葉から不足の響きを取り除くと、収集の物語とは別の姿が見えてくる。
公に確認できる資料が少ない人物には、探偵になりたいという熱意が向けられる。その後どうしたのか、なぜ次がないのか。自然な疑問ではあっても、録音が聴衆に完全な伝記を提出する義務はない。作品の外側の空白を、作品の内側の欠陥として扱う必要もないだろう。確認できる名前、歌唱という仕事、具体的な協働から始めればよい。境界を守ることは人物を薄くすることではなく、勝手に人生の結末を作らないための配慮でもある。
表題曲では、来生えつこが作詞、椎名和夫が作曲と編曲、間宮が歌唱を担う。この分担は、歌手を単なる受取人にするものではない。他者が書いた歌にも、言葉を数分間の出来事へと変える人が必要だ。歌うことは、預かった荷物を未開封のまま転送する行為ではない。作品が耳へ届くときに取る具体的な形なのである。作者が用意した可能性の一つを、声が時間の中に置く。その働きを、署名の数だけで小さく見積もることはできない。
周囲の顔ぶれにも目を向けたい。公式の再発紹介には、椎名のほか、難波弘之、鳴瀬喜博、井上鑑といった参加者が挙げられる。知っている名前に導かれて聴き始める人もいるだろう。しかし、参加者の一覧は主役の代用品ではない。いくつもの専門性が一つの声を支え、その声は常に大きさを誇示しなくても中心にいられる。そう考えるなら、歌手の中心性は音量や知名度の順位ではなく、異なる仕事が集まる関係として理解できる。
間宮貴子の価値を、消失と再発見の物語だけに預ける必要はない。古いレコードに初めて出会う喜びは確かにあるが、それは今の出会いに属する喜びであり、以前の作品に価値がなかったことの証明ではない。『LOVE TRIP』を残した歌手。その制作には確認できる作者と演奏家がいる。まずはその具体性を保っておきたい。余分な噂を重ねなくても、響きは長く続く。注意深く作品へ戻る行為そのものが、歴史に次の時間を与えるからだ。