杏里の「悲しみがとまらない」は、題名からして平静を装わない。いつも余裕があるというシティポップのイメージの横に置くと、その率直な感情の見出しは面白い緊張を作る。作詞は康珍化、作曲は林哲司、編曲は林と角松敏生が担当した。康の仕事は、この共同作業の中に、まず人間の置かれた状況を据える。街の表面は整っていても、そこにいる人の感情まで整っているとは限らない。とくに、礼儀正しい時間割に従って終わってくれない感情ならなおさらだ。
康と林の別の共同作業に、杉山清貴&オメガトライブの「ふたりの夏物語」がある。フジテレビの番組資料にも、その詞曲の署名が残る。二つの題名を並べると、感情の尺度が変わる。一方には止められないものがあり、他方には「ふたり」と「夏」で囲まれた時間がある。作詞家を悲しさや明るさの専用供給者と決める必要はない。同じ作曲の相手を、異なる物語の枠組みへ招く入口を用意できることに、この仕事の柔軟さがある。
作詞は、ときに情報を渡すだけの仕事だと思われる。別の言い方に置き換えても、用件は同じだというわけだ。しかし流行歌には、記憶に残る呼びかけ方も必要になる。題名は新聞の見出しのように素早く状況を伝え、同時に、作品へ入るときの期待を決める入場券にもなる。康の署名からは、感情が数分の中で伝わるための、命名、選択、抑制という仕事が見える。直接的であることは、設計がないこととは限らない。集中した設計の結果である場合もある。
この区別は今の聴き手にも役立つ。シティポップをくつろぐための背景としてだけ扱えば、美しい表面の下の摩擦を見失いやすい。書き手に戻ると、表面には内側が生まれる。康の二つの仕事は旋律の楽しみを捨てるよう求めず、感情がどう共有できる形になるかへ注意を促す。一つの題名は悲しみを続け、もう一つは夏を二人に与える。録音の外では、暦は当然先へ進んでいく。それでも曲の数分間だけは、その進行に協力しないでいられるのである。