一つの曲が持つ二つの題名は、隣り合いながら少し違う部屋へ案内する。「悲しみがとまらない」が示すのは止まらない悲しみであり、「I Can’t Stop the Loneliness」には明確な私と、孤独という別の感覚がある。悲しみが必ず独りでいることから生じるわけではなく、孤独が必ず悲しそうに現れるわけでもない。どちらかがどちらかを訂正する必要はない。そのわずかなずれに、まず感情を認める人と、感情を支配できない自分の状態を認める人の、双方が入る場所ができる。
杏里のシングルとして一九八三年十一月五日に発売され、同年十二月の『Timely!!』にも収録された。作詞は康珍化、作曲は林哲司、編曲は角松敏生と林哲司の共同名義である。この共同名義はきちんと残して読みたい。個人的に見える気持ちが、繰り返し再生できる作品になるには、異なる仕事の協力が要る。書くこと、組み立てること、歌うことは交換可能な担当ではない。その違いが働くからこそ、聴き手は一つのまとまりを受け取れる。
ポップ・ミュージックが悲しみにできることは、必ずしも治すことではない。私たちは、ときに歌が立ち直らせてくれるかどうかを急いで問う。感情が適切に扱われた証拠は、早く終わることだけだと言わんばかりに。しかし、そこに時間と形を与えること自体に意味がある。曲は始まり、終わり、また再生できるが、中に置かれた経験まで同じ回路をきちんと一周する必要はない。長さの決まった作品と、終点の見えない感情が共存する。その釣り合わなさが、音楽を伴走者にするのかもしれない。
完成された表現だからといって、生活を再び制御できるようになった人を意味するわけではない。気持ちを明瞭に伝えながら、その気持ちを明瞭に処理できないことはある。表現と制御は違う能力なのだ。慣れ親しんだ曲を聴くときにも、他人の不慣れな経験がそこに入る余地を残したい。一つの感情の名前ですべての人を説明しないために。日本語題名で明示されない主体も、英語題名のはっきりした私も、その違いへ通じる入口になっている。
曲が用意するのは、答えよりも、文法上の居場所なのかもしれない。いまは止められない気持ちがあると認めても、その気持ちだけの人間にまとめられる必要はない。題名は現在の能力の境界を述べられるが、一生の判決を下す必要はない。レコードが終われば暮らしは続く。それでも聴いている数分間は、良くなったふりを先に済ませなくても、うまく扱えない感情が聞き届けられる。