多くの時間には、来る前から仕事の名前がついている。出かける時間、返事をする時間、別の場所へ着く時間。「COBALT HOUR」という題名は、別の並べ方を提案する。義務ではなく、色がひとまとまりの時間を組織してもよい。これは二つの言葉の読解であり、荒井由実の私的な意図を再現したものではない。それでも、一九七五年の同名アルバムを開く曲への入口にはなる。音楽の分類を代表する看板にする前に、名づけの中にある小さな自由を考えたい。今が何を要求するかだけでなく、今がどう見えるかによって、現在を記述する自由である。
一曲目という位置には意味がある。入口に置かれたタイトル曲は、後のすべてを説明する鍵のように見える。しかし鍵は扉を開けても、すべての部屋の家具を決めるわけではない。次は「卒業写真」であり、その後にも別の題名と経験の大きさが続く。「COBALT HOUR」を総合説明書ではなく招待と考えることは、曲と隣の曲の両方を守る。デジタルの発見にも、代表的な一曲を取り出し、作者の残りの作品にも同じ空気を要求してしまう習慣がある。代表は役立つが、違いを禁じる規則になっては困る。始まりには、先で方向を変えられる余地もほしい。
確認できるクレジットは、この名づけに具体的な人の場所を与える。作詞と作曲は荒井、編曲は松任谷正隆。結びついた仕事だが、互いに交換できるものではない。作曲を場所を開くこと、編曲をその場所が空気とどう出会うかを決めることにたとえてもよい。ただし比喩は不完全である。どちらも建築だけではなく、一行の署名であらゆる創作上のやりとりを説明できない。狙いは、二種類の仕事をともに見えるようにすることだ。録音を一組の手だけが作ったものと想像しなくても、シンガーソングライターの主体は中心に置ける。
英語の題名には、ポップスがどう旅するかという問いもある。借りた言葉を、外へ権威を求めている証拠として扱うのは簡単だ。しかし日本のレコードにある二つの英単語には、それだけではない意味がありうる。選び取られた材料として、盤面や紙にある形を作り、日本語の題名の隣で別の調子を生む。長い時間を経て海外の人が出会えば、また違う連想が加わる。どの出会いも題名を独占できない。運ばれていく性質は作品の公的な生涯の一部だが、作者と最初の文脈は、それを何にでも貼れる青いラベルにしないために残る。
今の聴き手にとって役立つ問いは、この題名がどんな注意を可能にするか、ということかもしれない。数分をすぐ効率や生活様式の買い物、他者へ見せる画像へ変換せずに受け取れるだろうか。曲は人生の教訓を渡さなくても、その問いのための場所を作れる。問いかけるために一九七五年へ帰ったふりをする必要もない。録音の歴史を演じるのではなく認めながら、始まりを現在に作ることができる。「COBALT HOUR」は、時間に固有の手触りを許し、誰がそれを名づけられるのかに気づくための招待になる。