「恋するカレン」という題名では、カレンは恋の主体である。選ばれるのを待つ物ではなく、自分から誰かを愛している人だ。ところがラブソングを聴くとき、私たちは判断を語り手に預けやすい。痛みを十分に表現できた人物が、出来事の真実まで全部持っているように感じられる。題名は、その移譲に小さな抵抗を残す。一人の傷つき方も、もう一人の選択も、どちらも本当でありうる。語る場所が均等でないからといって、一方を消す必要はない。
松本隆の詞と大滝詠一の曲によるこの歌は、一九八一年の『A LONG VACATION』に収められている。二つの署名は、歌の「私」が書かれ、演じられた視点であることを思い出させる。作者が自分の名で提出した道徳的声明と、同じではない。ある視点に引かれながら、それを全知として扱わずにいることはできる。歌の感情的な力は、本人にはわからない自分の姿を、聴き手が痛みと限界の両方として見ているところから生まれる場合もある。
拒まれた人は、愛情の強さを返済請求の根拠にしてしまいやすい。深く思っていたほど、相手の決定に口を出す権利があるように感じる。しかし愛は、貢献の割合に応じて精算できる債務にはならない。この問いを曲へ持ち込むのは、傷ついた人物への同情を取り消すためではない。同情をより正確にするためだ。慰められるに値することと、他人の人生について結論を下す権限を得ることは別である。痛みを認めても、その痛みの中でなされた判断すべてを承認する必要はない。
だからカレンという名前には、独特の重みが生まれる。名前は相手を具体的にするが、相手のすべてを知らせてはくれない。歌の中で一つの名前が強く意識されていても、その人の生活の大部分は声の外側にある。この距離を保てば、美しい人、残酷な人、真心のわからない人という便利な役へ、彼女を片づけずにすむ。そうした分類は、別の可能性から語り手を守ってしまうことがある。愛されている人には、愛している人と同じ未来を望む義務はない、という可能性だ。
この曲の長く考え続けられるところは、親しさと疑問が同居できる点にある。語り手が全面的に正しいと決めなくても、失望の時間に付き添うことはできる。カレンの意志を認めるために、語り手を悪人にする必要もない。注意深く聴くとは、この両方を保つことなのだろう。心の痛みは真剣に受け止め、そこから導かれた評価は話し合えるものとして残す。ラブソングは裁判所ではなく、食い違う経験が数分間、同じ場所で過ごせる部屋になる。