「モンロー・ウォーク」は、音を説明する前から、ある像と一つの動作を結び付けている。固有名は固定された印のように見えるが、歩くという動作には通過、均衡、時間がある。その張り合いは、作り手の私的な意図を創作せずに使える批評の入口になる。題名は歌手本人の写真ではなく、そこから連想される人物像も南佳孝の伝記へ直接重ねられるものではない。ポップは名前を持ち運べる記号にすることができる。聴き手はそれを知っているものとして認め、同時に、別の配置の中で新しく出会う。親しみと異化は、その小さな入口で共存できるのである。
公式のクレジットは、この配置を具体的にしてくれる。言葉は来生えつこ、曲は南佳孝、編曲は坂本龍一。それぞれは交換可能な所有権ではなく、異なる種類の作者の仕事だ。大きく表示される歌手の名前が公的な印象をまとめるとしても、作品は言語、作曲、特定の音楽的実現を通ってその名前へ届く。署名を読むことは、録音への注意の向け方を変える。表現を一人の内部から直接注がれる物質と考える代わりに、ある姿が音として現れるまでの判断を見ることができる。そのことによって親密さが失われるのではなく、親密さの成立がより興味深くなる。
ソニーの歴史的な特集には、坂本のFender Rhodesとシンセサイザーに加え、ギター、ベース、ドラム、パーカッションなどの担当も記されている。これは特定の録音についての証拠であり、その後のすべての演奏へ同じ参加者を当てはめる許可ではない。異なる楽器の役割が並ぶ事実は、人間的な感情とスタジオの構築を二者択一にしない聴き方を促す。記録された身振りが直接的に感じられるのは、複数の人がその身振りの現れる場所を調整したからかもしれない。技術は歌い手と聴き手の間にある障害とは限らず、そもそも出会いを可能にする条件にもなる。
発売の順序は、曲に二つの初期の公共的な場所を与えている。ソニーによればシングルは一九七九年四月二十一日、続く『SPEAK LOW』は六月二十一日で、この曲は六番目に置かれた。二か月の隔たりを残す意味は、シングルとアルバム曲が、作品とは何かを争う別々の答えではなく、提示の仕方だからである。単独の発売は速やかに出会いを作る必要があり、アルバム上の位置は隣接する曲と長い順序の中の場所を与える。ただし、これは流通と枠組みの違いであって、二つの発売の音声が同一だと証明するものでも、日付が異なるだけで再録だと示すものでもない。
後に郷ひろみが「セクシー・ユー」という題でカヴァーしたことは、作品と提示の区別をさらに明確にする。公式の説明がカヴァーとすることで関係は確認できるが、二人の演奏が一つに統合されるわけではない。題名が変われば入口も変わる。別の扉から曲を知り、後で南へたどり着く聴き手もいるだろう。その移動は、最初の版が意味をすべて所有し、後の版はただ反復するという単純な序列では捉えきれない。作者であることは重要だが、人々の認知は、最初の歌い手が完全には制御できないさまざまな出会いを通じても形作られる。
この歴史は、シティ・ポップを聴く際に有用だ。プレイリストは異なる年や場所から来た曲を、継ぎ目のない現在へ置くことができる。その楽しさは本物だが、表面の滑らかさは、そこまで来た道筋を隠す場合もある。この曲にはシングル、アルバム内の位置、カヴァー、後年の版という経路がある。それは音楽から注意をそらす余計な話ではなく、音楽が利用可能になる方法の一部なのである。経路に目を向ければ、発見は魅力的な題名を集めること以上になる。認識がどのように作られ、別の場所へ運ばれるのかを調べる、先へ進める経験となる。
題名の歩行は、最後に聴き手自身の作業の比喩として戻ってくる。南の声から始め、来生と坂本の署名された仕事へ進み、さらに作品を追って別の歌手のカタログへ向かうことができる。ただし、そこへ着いても同じ録音へ戻ったことにはならない。この道筋は最初の出会いを弱めず、すぐに親しく思えたものへ具体性を与えることで深くする。良い地図は、移動できる作品、特定の共同作業に結び付く録音、その間を歩く聴き手を区別しておくべきだ。いまどの敷居を越えたのかを覚えていることは、自由な移動を妨げず、むしろ遠くへ行くための助けになる。