休暇とは、いつもの日々とは違う振る舞いを期待される時間だ。私たちは日程を決め、待ち遠しく思い、特別な名前を与えて普段の暦から切り離す。しかし天気は、その段取りを知らない。「バカンスはいつも雨」という題名は、この簡単な非対称を、覚えやすい関係にまとめている。題名だけで、二つの仕組みが隣り合っているのだ。楽しみを準備する人間の仕組みと、その準備とは別に動く世界。杉真理のこの曲へは、余暇が思い描いた通りにならない、その接点から入ることもできる。
一九八二年にシングルとして発表された曲は、グリコのアーモンドチョコレートのCMにも起用された。この確認できる背景には、もう一つの期待がある。広告は限られた接触の中で印象を残そうとし、歌は接触が終わった後にも思い出され得る。記録に残るこの結びつきは、普通の商品が流通する場所を通じて、歌が日常へ入る経路を持ったことを示している。自分から選ばなかった接触も、後になって思い出す経験の一部になる。音楽との最初の出会いは、音楽を積極的に探している時間だけに起こるわけではない。
その場で題名のバカンスを考えると、欲望の尺度にも目が向く。買うことのできる小さな品物と、日常を離れた時間という大きな想像の空間が、商業的な場の中で近づく。この近さを通して、異なる大きさの欲望が触れ合う構造を考えられる。小さな楽しみ、待っている休み、いつもとは違う自分の姿が、同じ想像の中でつながっていく。雨はそこに扱いにくい要素を持ち込む。天気を、買い物によって従わせることはできないからだ。計画された楽しみの言葉に、誰もが分かる摩擦が加わるのである。
「いつも」という一語は、その摩擦をさらに強くする。一度だけ雨に遭うなら、それは一つの出来事だ。休暇がいつも雨なら、自分の不運として語ったり、誇張したりできる型になる。この違いは、ポップスの題名が日常の言葉から力を得る仕組みを考えるうえで面白い。繰り返す失望について話すとき、私たちは証拠が示す以上に大きな言い方をする。その言い過ぎによって、経験は他人と共有しやすい形を持つ。題名には苛立ちも苦笑も入る余地がある。日常の言葉が、歌へ入りやすい敷居を作っているのだ。具体的な出来事はある人のものでも、その型は、それを知っている誰にでも開かれている。
この曲では、作詞、作曲、編曲を杉が担っている。役割が集中することで、短い発想と、その発想が提示される方法との関係が気になってくる。題名は記憶できる長さを必要とするが、歌には、覚えた言葉へもっと広い時間を与える余地がある。編曲はさらに、書かれた素材が演奏の共有空間をどのように占めるかを決める。個々の楽器や録音技術を数え上げる前から、ここには設計上の問題がある。一人の作家が、携帯できるほど短い言葉から、それが誰かとの出会いになる条件まで、いくつもの尺度をまたいで仕事をしているのだ。
『STARGAZER』への収録は、出会いをもう一度変える。一九八三年の原盤ではB面の四曲目に置かれ、曲順はその先へ続いていく。シングル曲に隣人ができ、注意の向く範囲が変わるのである。知っている題名を目当てに来た人は、周囲のまだ知らない作品へ進む理由を得る。アルバムを順にたどる人は、すでに何らかの期待を作った後でこの曲に出会う。歌の独立した個性を残しながら、選ばれた連続の一部としても経験させる。これがアルバムの静かな力だ。後ろには入口があり、前にはまだ出口がある。
シティ・ポップを入口にする聴き手にとって、この題名は、あまりに整った余暇の風景へ現実の条件を持ち込む。休みには限られた時間や準備があり、どうしても協力してくれない物事もある。雨の休暇も、望ましい生活の中に置いてよい。楽しさの条件として、偶然がすべて取り除かれる必要はないからだ。シングル、CMでの使用、アルバムへの収録という経路は、この曲に複数の日常的な場所を与えた。題名は、逃避への期待の中に失望も残しておく。天気が予定に従わないところで、休暇は語り合うことのできる人間的な大きさを得るのである。