一人の名前が、人の集まる場所になることがある。レコード店で同じ見出しの下に置かれる作品にも、異なる仕事をする人々がいて、その違いは消えない。杉真理を考えるとき、まずこの署名と共同作業の関係に注目したい。一九七七年のデビュー作『Mari & Red Stripes』には、竹内まりやや安部恭弘が参加していた。後に知られる名前を初期の名簿に見つける楽しさ以上に、ここで大切なのは、出発点がすでに出会いの場だったということだ。孤独な歌い手の姿を思い描く前に、個人の声が聞こえるようになるための環境が見えてくる。
一九八〇年にCBSソニーから発表したアルバムの題名は『SONG WRITER』だった。音の特徴を説明する言葉ではなく、仕事を示す名刺として読んでみると、この題名は率直で、しかも広い。歌を書く人。その歌はソロ作品になり、共演者との関係によって形を変え、別の歌手に託されることもある。毎回マイクの前に立つことだけが、作家の連続性を保証するわけではない。ある演奏が何になり得るかを想像する能力もまた、その人の仕事をつないでいく。作品の実現する場所が増えるほど、名前が示す活動の範囲も広がるのである。
ナイアガラ・トライアングルという共同名義は、また別の登場の仕方を用意した。一九八一年のシングル「A面で恋をして」に続き、大滝詠一、佐野元春と参加した『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』が翌年三月に発売される。三角形は、企画名であると同時に、共同作業を考えるための便利な図形でもある。複数の点があり、点同士の距離によって形が決まるからだ。杉の仕事を読む際にも、その距離を残しておきたい。つながりは作品へ入る扉になるが、一人の作家を別の作家の経歴の脚注にしてしまう必要はない。扉の先には、それぞれに滞在する価値のある部屋がある。
須藤薫や竹内まりやなどへの楽曲提供は、共同名義とは異なる形で、この問題を広げている。作家の名前を入口にしない聴き手へも、歌は届く。作者が部分的に見えなくなることは、ポピュラー音楽の生産的な条件の一つだ。歌唱には目の前の人の存在があり、その人が歌う作品には、別の人の選択の履歴が含まれている。両方を意識すると、個人的な表現という言葉の意味も変わる。声は誰かのものだが、その声の動ける空間にも、誰かの準備がある。感動の持ち主を一人に決めるのではなく、分業が表現を成立させる過程を考えることができる。
一九八三年の『STARGAZER』では、個人の署名があらためて集中的に現れる。公式のクレジットには、原盤の全曲にわたる杉の作詞・作曲と基本となる編曲、そして追加の編曲担当者が記されている。この併記は重要だ。強い作家性は、ほかの専門性を迎え入れられる一連の判断としても成立する。とりわけ編曲という仕事は、関係を考える入口になる。ある考えをどこに置き、何で囲み、次の考えへどう渡すのか。作者の輪郭は、そうした関係を整えることで明瞭になる場合がある。統一感のある作品と、複数の人の仕事は、同じ場所に存在できるのである。
後の経歴に登場するBOXやピカデリーサーカスは、共同作業を長い時間の中で考える機会を与えてくれる。バンド名は、すでに個人名を持つ音楽家が、集合的な文法の中へ入り直すための形式でもある。なじみのある相手との習慣や予想は、新しい仕事の材料になる。それぞれが持ち寄った経験で何が可能になるのかを、あらためて試せるからだ。長く活動することを、ある年代の記憶を守る役目だけに限定したくはない。持続する関心を保ちながら、それを表す人間関係の形は変わっていく。その変化を受け入れる余地が、次の歌の居場所にもなる。
City Pop Atlasの中で杉真理を扱う意義は、この開かれた動きにある。ジャンル名は作品目録への入口を作るが、作品が入口の外へ聴き手を連れ出す可能性も残しておきたい。ソロ盤、提供曲、繰り返し現れるバンドの名前を、一枚の都会的な余暇の風景に収めることは難しい。むしろ、いくつもの席があるテーブルを想像するとよいかもしれない。作家はあるとき主人になり、あるとき客になり、ときには歌を先に届ける。この比喩なら、経歴を動いているものとして捉えられる。その道をつなぐのは、誰かと一緒に歌を可能にし続ける実践なのである。