「愛は彼方」は、音を聴く前から距離の方向を示している。題名は愛を、話し手がいま立っている場所の向こうへ置く。けれど住所も、測れる距離も与えない。題名だけを読むなら、その開かれ方が魅力になる。彼方は目的地かもしれず、隔たりかもしれず、なかなか届かない何かにつけた名前かもしれない。そのどれも、曲の唯一の物語として決めつける必要はない。題名は、誰かが何を経験したはずか先に教える代わりに、注意を向けるための空間を作ることができる。聴き手には方向が渡され、その周囲にはまだ余白が残されている。
今井優子の『DO AWAY』に収められた録音では、クレジットを通して別の距離も見えてくる。作詞・作曲は吉田美奈子、編曲は角松敏生、歌うのは今井である。カヴァーであるという事実は、作者という存在の考え方を広げる。曲は書き手を置き去りにせずに移動できるし、新しい歌唱はオリジナルの中に消えてしまわなくてもよい。三つの責任は、感情の真実らしさに順位をつけずに、一つの受け渡しを描いている。書くことは作品を存在させ、編曲は具体的な環境を与え、歌うことは誰かへ呼びかける次の機会を作る。継続と違いは、同じ受け渡しの中で同時に届くのだ。
全十一曲のアルバムでは、この曲は「End of the winter(overture)」に続く二曲目に置かれている。以前に書かれた作品が、敬意を示すための付録ではなく、今井のレコードへ入る早い段階の入口になる配置だ。新しい文脈の始まりの近くに立っている。ここにはカヴァーの大切な可能性がある。すでに存在するものが、いま作られているものを紹介する助けになれるのである。出典を知っていれば出会いは深まるだろうが、予備知識を入場試験にする必要はない。今井を入口にして、後から吉田へたどり着く人もいてよい。同じつながりを、好奇心は逆向きにも移動できる。
このクレジットはまた、シティポップを孤立した名作の戸棚として扱うことへの、別の提案にもなる。地図ですでに親しんだ吉田と角松が、もう一人の歌手の作品を通じて結ばれ、それぞれの役割は区別されている。関係が有名人の名前の羅列より多くを教えるのは、その人が具体的に何をしたかを示すからだ。同時に、地図は今井を自身の歌唱の中心に残さなければならない。作曲者をたどって外へ進むことが、演奏する人を後に残すことになっては惜しい。豊かな道は往復できる。つながりの一つ一つが、出発した録音への理解を広げることができるはずだ。
今井の公式ディスコグラフィーでは、「愛は彼方」は二〇二一年、「さよならを言わせて」と組み合わせた七インチ盤にもなっている。アルバムでの登場の後に、曲はもう一つの枠を得た。順序の中で出会った題名が、後にはレコードの片面で聴き手を迎え、別の連想を始めることができる。この後の歩みは、すべての版が同じマスターを使っている証拠ではなく、文化的な意味を考えるためにもその同一性は必要ない。歌は、注意を向け直される機会を重ねて続いていく。「愛は彼方」が示す距離は、その作品自身の旅の比喩にもなりうる。作り手、発売の場、聴き手のあいだを渡り、認められる姿を保ちながら、一か所だけに留まらずにいるのだ。