デビュー盤は普通、書き換えられない出生証明のように、固定された出発点として扱われる。角松敏生が『SEA BREEZE』に行ったことは、その出発点をもう一度作業可能にした。原盤は一九八一年。Sonyによる二〇一六年版の説明では、当時のマルチ音源を整理し、歌を録り直し、角松自身がミックスを行ったという。大切なのは懐かしいという形容詞より、保存する、歌う、混ぜるという動詞だ。過去が仕事机に戻り、なお判断を必要としている。
すると、新旧の優劣より細かな問いが生まれる。レコードの同一性は、どの層に宿るのだろう。素材は昔、歌は後年、ミックスは両者の位置を新たに決める。同じ題名でも同じ版とは限らず、年齢を重ねた作者は若い自分の埃を払うだけではない。二つの時間が一つの作品で会い、連続と、消せない距離を同時に残す。
杏里との仕事では、その能動的な制作の姿が別の関係に置かれる。発売資料は「WINDY SUMMER」の作詞・作曲・編曲を角松と記す。その確認できる線をたどれば、個人作品と他者のための仕事が同じ地図に載る。歌手、作者、編曲者を別々の職業の箱へ閉じ込めなくてよい。ただし曲ごとの役割は区別したい。地図の楽しさは通行できることに、信頼性は道が実在することにある。
シティポップの視覚表現では、入念な制作は車体やプールやガラスの、滑らかな表面として描かれがちだ。この版の物語には、古い設計図を広げた机が似合う。光沢の下には、素材を残し、置き換え、再配置する仕事がある。専門用語を趣味の勲章にせず、制作を形容詞から労働へ戻してみる。
『SEA BREEZE』は入口であると同時に、比較する対象にもなる。どの版かを確かめるほうが、どの時代が純粋かを争うより役立つ。古典は変化によって、何からできているかを明らかにすることもある。自分の初期作品に戻る人を迎えるのは、馴染みの素材と、もう一度答えを求める現在なのである。