カーニヴァルの魅力は、日常の規則がしばらく緩むという約束にある。ただし、その時間を誰かが用意しなくてはならない。道順を決め、衣装を縫い、照明をつける人がいる。一九八〇年の『ROMANTIQUE』を開く「CARNAVAL」は、この矛盾から考えると面白い。自由は、組織が消えた後にだけ現れるものではない。細かな手配が十分に行き届くことで、人はしばらく手配の存在を忘れられる。解放に見える出来事の背後にも、誰かの労働時間がある。
大貫妙子が詞曲を書き、坂本龍一が編曲したこの曲の演奏資料には、大村憲司、細野晴臣、高橋幸宏、そしてコンピューター・プログラミングの松武秀樹が並ぶ。祝祭の題名に、きわめて現代的な勤務表が付いている。大切なのは、有名人の名前をいくつ集められるかではない。楽器を演奏する仕事と、プログラムを作る仕事が、隣り合わせに認められていることだ。軽やかな場を成立させるために、異なる種類の労働が接続されている。
音楽の話に技術が登場すると、冷たさの役を割り当てられがちである。精密に作られているほど、楽しみの真実味が疑われる。けれども面具も舞台も衣装も人工物だ。設計されていない祭りでなければ楽しめない、とは誰も思わないだろう。この曲を人工の祝祭として読むことは、偽物と本物という狭い二択から出る助けになる。入念な構成と誠実な感情は、同時に存在できる。問うべきなのは、その構成が中にいる人のために何を可能にしたかである。
『ROMANTIQUE』というアルバム名も、入口にもう一枚の薄い幕を掛ける。特定の場所へ直接入るのではなく、名前を与えられた想像の形式へ入るのだ。外国語の題名と祭りの題名が、表紙と曲目表の上で互いを照らす。それぞれに一対一で対応する現実の風景が必要なわけではない。別の暮らし方を語る言葉が手に入ることで、いまの暮らしの境界が少し柔らかくなる。欲望のほうが、持ち主より先に旅をすることもある。
こう考えると、「CARNAVAL」は統制の放棄よりも、その配分の変更を示す。作曲も編曲も演奏もプログラムも退場せず、それらが一緒に解放の条件を整える。働く都市の反対側にあるのは、必ずしも無人の浜辺ではない。多くの人が慎重に作り上げ、しばらく別の自分でいることを許す共有空間でもよい。祭りは終わるが、それを支えた協働は記憶に値する。終わらないパーティーの夢より、その分担表のほうが自由の実際の条件に近いからだ。