「Sargasso Sea」の言葉は少ないが、少なさを安楽へ変えてはいない。海をめぐる想像は、拘束と移動の緊張によって組み立てられている。広大な環境が、そこから離れる能力を自動的に与えるわけではない。この前提は、曲の海を休暇の広告の海から遠ざける。広告では、空間が増えれば自由も増えるように見える。ここでは別の比率が生まれる。周囲がどれほど広くても、ある存在の行動範囲は厳しく限られうる。広さは慰めではなく、無力さを露出させる。
圧縮された書き方は、完結した航海の物語を用意しない。どこから来たのか、なぜこうなったのかという問いに、通常の物語ほどの分量は配られない。聴き手は次の筋を知って逃れる代わりに、一つの状況の中にとどまる。短さは抵抗になる。不安を説明して片づけるだけの情報がなく、美しい地名が旅行の夢の中で普段果たす仕事も、簡単には済まない。ここで余白は、まず未知である。あらかじめ用意された平穏ではない。
演奏の資料も収縮する。詞曲は大貫妙子、編曲は坂本龍一で、公式の楽器一覧に記されるのは、坂本とArp Odyssey、Steinway Piano、Fender Rhodesである。周囲の長い演奏者一覧が、ここで急に簡潔になる。限られた材料と短い本文には、考えるに値する形式上の対応がある。海を示すために、次々と物を追加する必要はない。想像上の海が大きくなるほど、それを支える枠が小さく見える。多さとは別の仕方で、規模が現れるのである。
その枠の中では、静けさと安全は同義語ではなくなる。休息には再び出発する選択が含まれるが、拘束では選択そのものが損なわれているかもしれない。外からは同じ静止に見えても、内側はまったく違う。この区別を大切にすることで、曲は旅行の図像が受け入れやすい「離れたい」という願いを複雑にする。都市の境界を越えれば、以前の状況を脱したことになるとは限らない。より大きな空間の中で、行動の余地だけが小さくなることもある。
一九七七年の『SUNSHOWER』で最後から二番目に置かれたこの曲は、「Silent Screamer」と「振子の山羊」に挟まれている。前者は加速を危険にし、後者は生命と環境の関係を不安定にする。「Sargasso Sea」はそのあいだで、運動と停止の境界にとどまる。アルバムの終盤は、余暇の案内書にはなりきらない。理想の岸辺へ届けるだけでなく、海そのものを問いにする。周囲にはすでに十分な広さがあるのに、なぜ出発はなお難しいのか。