よく知った題名が、新しい関係を隠すことがある。「TONG POO」は、一九八〇年の矢野顕子『ごはんができたよ』の七曲目に置かれる。しかし題名だけでは、誰の録音に着いたのかは分からない。ソニーの資料にある作曲・坂本龍一、作詞・矢野顕子という区別が大切になる。YMOと結びついた旋律が、明確に署名された言葉の仕事とともに、別の歌い手のアルバムへ入った。これは収集家だけの細部ではない。歌は続いていくものを保ちながら、人がこちらへ語りかける位置を変えられる。認識と違いは、互いを打ち消さなくてよい。
曲へ言葉を加えることは、できあがった絵の下へ説明文を置くだけではない。言葉は、誰かへ話しかける、何かを語らずにおく、中心の位置を考え直させる、といった可能性を導く。これは形式についての話であり、この曲の歌詞の筋を言い換えたものではない。引用も具体的な物語の代筆もしなくても、矢野の作詞者としての署名が重要な理由は分かる。記されているのは装飾ではなく著作の仕事である。坂本の作曲はそのまま固有の貢献であり、文章は別の責任を作る。一人をもう一人の名声の中へ消さず、両方の来歴を保てる。
アルバムに入ることで、出会いの枠組みも変わる。全十四曲の中では「DOGS AWAITING」の後、「青い山脈」の前である。電子ポップ史の印として一曲だけを立たせるのではなく、矢野自身が選び、書いた曲々の中での場所に注目してもよい。隣の曲が本質のすべてを決めるわけではないが、聴き手が近づく道を変える。物を別の部屋に移しても、あらゆる性質が変わるわけではない。ただ、人がそれへ向かう経路は違ってくる。この版には、このアルバムという家がある。以前の有名な結びつきだけを指しても、その家を説明したことにはならない。
Wewantsoundsの記述は、この時期の矢野をYMOのツアー編成に位置づけ、同じ音楽家たちのアルバム参加を伝える。これは仕事上の関係であり、本人をグループの正式な所属へ吸収する理由ではない。同時に、このヴァージョンを、見知らぬ二人の間の遠い憧れとして想像せずにすむ。確認できるのは、人々が関係を持ちながら音楽を作っていたという文脈で、録音をめぐる会話のすべてではない。歴史はそこで止まってよい。相手の仕事をよく知りながらも、別の入り方を見つける可能性は、架空のスタジオ逸話を加えなくても十分に興味深い。
そこで図譜には、矢野顕子版の「TONG POO」として記す。一九八〇年のアルバム登場を、作曲作品のそれ以前の歴史や、ほかの録音とは分ける。この精密さは、むしろ歌が旅する力を守る。全部の版を曖昧な一項目にすると、移動の跡が消え、解釈は見えない労働になる。逆に、一つずつを無関係とすると、何かが運ばれてきたと気づく喜びがなくなる。その間に、立ち止まる価値のある場所がある。旋律は共有される参照点として認識でき、新たな著作上の貢献は、誰がそこから話せるか、聴き手がどこに立てるかを変えていく。