音楽の地図は、ときに鍵のかかった部屋が並ぶ家に見える。ジャズはこちら、電子ポップはあちら、生活の言葉は奥の小さな部屋、と区切られる。矢野顕子がその地図に必要なのは、鍵そのものを不要に見せるからだ。一九七六年『JAPANESE GIRL』でのソロ・デビューから、作詞作曲、ピアノ演奏、異なる場での協働が続く。分類不能という曖昧な賛辞で済ませたいのではない。一人の音楽家が同時に抱えられる営みを切り離すことで、分類は何を見えなくしてしまうのか。その問いを具体的な仕事に向けてみたい。
一九八〇年の『ごはんができたよ』は、一つの答えを与える。矢野が坂本龍一と共同プロデュースし、イエロー・マジック・オーケストラにつながる音楽家たちが参加した。重要な電子ポップのネットワークに近いという事実は、本人を他人の歴史の脇役にする理由にはならない。アルバムには矢野の名があり、矢野の書いた曲があり、制作の署名には共同の責任が記されている。共同作業には複数の主導性があってよい。著名なグループのそばにいる女性を、必ずグループから説明し始めると、地図は見慣れたものになる一方で、本人の場所が見えにくくなる。
食事の用意を知らせるアルバム名は、別のつながりも開く。ここではそれを、普通の言葉による人への呼びかけとして読みたい。私生活の証拠や、女性の仕事を定める規則としてではない。暮らしの言葉も、機械の言葉と同じように注意を組織できる。人を集め、孤立を中断し、時間を共有されるものへ変える。そうした言葉を生まれつき小さいものと見なすなら、限界は材料よりも見方にある。台所も実験室も、別々の要素が新しい関係に入る場所になりうる。そこで働く人をどちらかの固定した像へ閉じ込める必要はない。
長い活動は、同じ問いを別の大きさで示す。ビクターの公式プロフィールには、電子音楽のプロジェクトyanokami、ピアニスト上原ひろみとの仕事、宇宙飛行士の野口聡一が書いた言葉に曲をつけた共同名義作品が記録されている。これらは異なる仕事であり、あらゆる音楽が実は同じだという証明ではない。繰り返しではない連続性を考えられることに価値がある。声はここで何ができるのか、言葉はどう時間を占めるのか、他者は何を可能にするのか。そんな問いを別々の協働へ運ぶことができる。なお、この問いは本文の枠組みであり、矢野の発言として記したものではない。
シティポップの地図で矢野を置くなら、複数の方向へ開いた交差点がよい。坂本、細野、周辺の協働者との確認されたつながりは、一つの経路を説明するが、生涯すべてにジャンルの証明書を発行するものではない。境を越えることは、出発した場所を捨てることとも違う。部屋はそれぞれ異なるままで、扉を開けておける。その考え方なら、個々の協働の具体性と、間を動く本人の両方を尊重できる。生活の言葉は想像の大きさを保ち、電子的な仕事には人間の作者が残り、ピアニストは一番近い棚の分類表示よりも広い存在でいられる。